施設紹介:床面積 41.86㎡(23畳)ループカーペット張り
グランドピアノ ヤマハ
電子ピアノ ローランド
駐車場4台
(足りない場合は徒歩3~5分くらいのところに
志家大駐車場(神明町9-10 電話 019-624-5555)
ピアノや英語を習いたくて内部を見学したい方のために少し書いておきます。
内部を見学をするのは自由です。ただ営業時間(火~土 10:00-21:00)以外にご予約なしでいらっしゃられても、こちらにも日々の生活があるので、そういうときには仕事の顔はお見せできないこともあると一言付け加えさせてください。
あみかでは、レッスンの間にのんびり雑談できる部屋はありません。(正確に申し上げると開放していません。子供が一生懸命レッスンしているときに隣の部屋でレッスンにさわるくらいの音量で他の保護者様と会話している人がいらっしゃると、なんだか違和感を感じます。そこらへん今風に言うと昭和なのでしょうね。)
「まあ!ピアノを教えているのに防音室にしていないなんて信じらんなーい?!」という方に。
新築するときにずいぶん検討しましたが、バンドなど、電気が必要な楽器を深夜まで教えるなら必要かもしれないだろうけど、ピアノ教室でわざわざ防音にしたことは、過去20年のキャリアの中でせいぜい1件ですと、ベテラン建築士がおっしゃっていたので、防音にはしませんでした。時代だったのかもしれませんね。最新の住宅もたった5年で時代遅れになるとハウスメーカーの方がおっしゃっていましたから。
それよりも少しでもゆったりした空間を確保することのほうが私にとっては大切なことだったので、そちらを優先させました。42㎡なんて中途半端な空間? まあ教室それぞれに事情があるということで。。。。
でも、この空間を確保できたおかげで、ピアノの伴奏に合わせて部屋中行進したり、英語で簡単な調理実習をしたり、夏にはみんなで一泊英語合宿したり、ちっちゃな発表会を開いたりできています。
⑤過去の変則的活動
'14年夏休み短期留学
日本にいるときにホームステイしていた友人が、アメリカの自宅へ招待してくれたので生徒が単身ホームステイに行ってきます。
今回は大学生なのでかわいい子には旅をさせよと送り出しました。元気で帰ってこ~い。
'13年 7~8月 アメリカ西海岸と南部短期留学
サンフランシスコとアーカンソーのリトルロックにホームステイに生徒達と行ってきました。留学時にお世話になったホストファミリーの病気のお見舞いも兼ねてだったので良い機会でした。日頃の練習を思う存分発揮して。。。といきたいところですが、日頃質問を聞き取って答える訓練しかしていない小学生は、自分の思うことを自分で文にして伝えることはまだできません。それは十分承知でこのホームステイを企画しました。中学に入って全てが忙しくなる前に連れて行くことができて大変良かったと思っています。中学生は学校の宿題を滞在中にこなさなくていけないくて、まさに寝る間もおしんでとなり、かなり苦労しましたね。私側サイドの人間は何事も起こらなかったからいいものの、とんでもない冒険をしたものだねとのことでしたが、私はまた今度も!とやる気満々です。
英語の勉強だけでなく、異文化体験(それも全く異なる2カ所の文化)ができてよかったですね。
あっ、生徒の発音に日本語なまりがないとほめられました。手前味噌ですが、それがあみかの生徒の英語の特徴です。どの先生もほめてくださいます。
暗記だけの英語スピーチコンテストはなんのため?の問い合わせに私の考えることを書きます。
単純に英語学習者のレベルが、文をとっさに自由に組み立てるレベルまで達していないせいで、丸暗記にならざるを得ないだけだと思います。アメリカの大学のスピーチコミュニケーションのクラスで、スピーチは丸暗記をするなと習いました。
しかし、英語が母国語の人達でさえ、中学高校レベルだと作文してそれを丸暗記してスピーチに臨むのが普通です。
にも関わらず日本で英語のスピーチコンテストがあるのは、パフォーマンス能力を高めるためなのではないでしょうか?それとコアとなるような模範スピーチを身体の中に取り込むためではないでしょうか?
言語は暗記しないとどうにもならないところがあるので、ちょうどいい機会だから模範スピーチを暗記して、それを今後のスピーチ、英作文に応用してほしいということだと思います。
私も過去にTOEIC900点(今どき満点をとるヤカラも出てきたし、残念ながら思いきり過去形)とったことはありますが、相変わらず英語はできないままで、映画やスピーチなど見聞きしていて新しく気がついた言い回しなどがあるとメモって暗記しています。
自作の英文スピーチの場合はまた開催趣旨が変わってくるのだと思います。
'12年10月 jack-o'-lanternの作成
jack-o'-lanternはかぼちゃのおばけの名前です。ランタンの一種なのでlanternという言葉が使われています。
日本の緑色のかぼちゃとちがって、オレンジパンプキンは果物ナイフで簡単にくりぬけます。くりぬいた後にろうそくをともすと下の写真のようになります。所要時間は20分かな?アメリカに住んでいたときは普通に毎年作っていましたが、日本に帰ってからはめんどくさがって作っていなかったのですが、今年は生徒さんが生のかぼちゃをプレゼントしてくれたのでやってみました。おためしあれ。
'10年 3月 春休み英語キャンプに参加
今時は日本国内でもあちこちで英語キャンプが行われるようになりました。レベルも初級者から上級者までいろいろ選べる時代になってきました。海外に行かなくともそれらしい気分を味わえるのはありがたいことです。
英語が話せても話せなくとも英語学習の動機づけになってくれればと声をかけたところ参加したい生徒がいたので、私も付き添いがてら様子を見てきました。少しでも保護者様の負担を軽くすることと、英語が話せたらもっと楽しくなると感じてもらえることが目的です。中学に上がってめちゃくちゃ忙しくなる前に疑似異文化体験ができて本当によかったと思っています。後は日本文化のサポートをすればバランスがとれるかな?
語学キャンプに明るい保護者様がいらっしゃって、その方々からいろいろ情報収集もできたのでよかったです。とてもいいキャンプだとおっしゃっていました。偶然全国版の教育雑誌の取材も行われていました。どこのキャンプかって?あみかで習ってくださったらお教えいたしますね~(営業営業!)
⑥ブログ(今までお世話になっていたサイトが突然2025年春に閉鎖しました。今こちらにお引越し中)
113 あみかの由来 2025 9/30
アメリカに住んでいた頃、私の名前を正しく発音できる人はほとんどいませんでした。難しすぎて途中でギブアップする人が続出。外国語を真面目に学んだ経験のある人は、異なる音に対して多少の免疫がありますが、英語が母語の人たちは「自分の言語が世界共通語」という感覚が強く、外国語をサバイバルのために身につけようという危機感が薄い印象でした。
私の名前には「タタタ」というリズムがありますが、英語圏の人にはそれが難しく、どうしても「タタータ」に変えたくなるようでした。また、母音の「a」は「エイ」と発音したくなる傾向があり、ローマ字表記を見て予測する音と実際の音があまりにも違うため、混乱の原因になっていました。
他の日本人は、自己紹介のときに「Nice to meet you, ○○」と名前を呼んでもらえるのに、私だけはいつも「Nice to meet
you, uh... I'm not even going to try to pronounce that.」と片付けられてしまい、悲しい思いをしました。だからこそ、自分の子どもには絶対に国際的に通じる名前をつけたいと思っていました。
「amicable」は「友好的な」という意味の英単語です。世界中の誰とでも仲良くできる人になってほしいという願いを込めて、「amicableのamicaだよ」と説明すれば、英語圏の人にも伝わりやすいだろうと考えました。後で知ったのですが、「amica」はイタリア語で「女性の友人」という意味もあるそうです。そんな背景もあり、教室の名前は「あみか」に決まりました。
英語のスピーキングに関して言えば、おしゃべりな子が向いています。話す量=練習量が絶対的に多くなるわけですから、当然ですよね。それと同時に、自分の考えていることを、相手の気分を害さずに主張できる人になってほしいという思いで指導しています。
ピアノに関して言えば、今は伴奏者の他薦はなく、ほとんどの子がオーディションに臨みます。いつだったか習っている子が全員伴奏を引き受けることになってなんであんなに下手なのに?という子も含まれていて驚いたことがありました。でも、だからこそ、「上手に主張できるように育ってくれたのかな?」なんて、つい「先生バカ」してしまいます。
そんなふうに、音楽でも言葉でも、「自分らしく、でも相手を思いやりながら伝える力」を育てたいと思っています。私が上手にできなくて今だに奮闘中なんですが。
112 ピアノの先生方が最低小6まで続けてくださいという理由 2025 8/21
最近「辞める勇気を持とう」と、まことしやかに語られる時代になった。確かに、どう考えても絶対に向いていない子どもが、親の希望だけで習い続けている場合には、そうした選択も必要かもしれない。
けれど、現代の子どもたちは、親に言われてイヤイヤ続けるというケースは少ない。むしろ、さっさと見切りをつけて、次の習い事へと移っていく。確かに「数打ちゃ当たる」で、いつかぴったりのものに出会えるかもしれない。
それでも、ピアノの先生方が「最低でも小学6年生まで」「10年は続けてほしい」と言うのには、理由がある。
私が考える最大の理由は、思春期を経験すると、ぱっとしなかったピアノが大きく変わるから。私の実感では、ピアノに影響する転機は10歳~12歳前後。この時期になると、子どもたちは私と対等に話せるようになり、楽譜も「なんでこんなに読めないの?」と思っていた子が、急に読めるようになってくる。
低学年のうちに芽が出ない子は、何年も暗闇の中を手探りで歩いているような状態が続く。でも、思春期を迎えると、突然光が差すように変化する子がいる。まるで、大人なら誰でもわかる域に到達したような感覚。すごく簡単なことだったのに子どもだったゆえに気が付かなかっただけみたい。
その域まで達することができれば、ピアノはきっと一生の心の友になってくれるのではないかと感じる。楽譜を素早く読めなくても、時間をかければ難しい曲を完成できるようになる子もいる。ブラスバンドで楽器を担当するようになる子もいれば、ギターに転向する人もいる。楽器ができなくても、歌で開花する人もいる。
中でも忘れられないのは、まさに「醜いアヒルの子」状態だった生徒のこと。楽譜は読めるのに、どうしてこんなに汚い音しか出ないのか?と不思議に思うほどで、正直、教えていて「この子は絶対に開花しないだろう」と感じたことがある。
ところが、思春期を迎えると、まるで別人のように音楽的に弾き始めた。学校では合唱の伴奏を任されるまでになった。ピアノ教師人生の中でも、かなり稀有な経験だ。あの子が思春期を待たずに辞めていたら、この高みには到達できなかっただろう。
だから私は、思春期まではがんばってみたら?と、子どもたちにも保護者にもアドバイスしたい。辞める勇気も大切だが、続けることでしか見えない景色もあるのであ~る。
111電子ピアノ店 2025 8/13
5月の連休中に南イオンに新しくオープンした楽器店に行ってきました。
これから電子ピアノの購入予定のある皆様、是非足を運んで色々弾いてみて決めてくださいね。今までは見ることもできなかったメーカーがそろっています。店員さんにつかまると押しが強くて。。。という気持ちもよくわかるのですが、今日は見るだけとはっきり打ち出して、日頃疑問に思っていることを質問してみてください。随分と勉強になると思います。また、子どもを連れて行くと、見た目などどうでもいい所に気を取られて親子喧嘩になってしまうので、ピアノは親だけで見に行くことをお勧めします。
東京在住のときは、そのお店は重宝に利用させていただいていました。マンションにいたこともあったので、電子ピアノを当時20万弱で購入しました。あれから20年近く経ちますが、電子ピアノも随分進歩したようで、これならと思えるようなタッチのものも触ることができました。なぜなら鍵盤部分は本物と同じ素材を使っているからだそうなのです。
盛岡は新幹線ができて東京も日帰りで行ってこれるようになりましたが、まだまだ田舎です。東京や主要都市だと、毎週末のように演奏会があり、勉強会があり、公開レッスンがあり。。。という具合で、音楽雑誌にスケジュールが載っているじゃないですか?あれが自分たちの街で繰り広げられているのです。
ちなみに店員さんは20万見積もって頂いたら通常のレッスンには差しさわりがないと思いますとのことでした。とりあえず、モリオカンにとっても選択肢が広がってよかったと思っています。購入については、分かっていてもなお10万前後のものに落ち着いてしまう場合もあるとは思いますが、知らないまま購入してしまうのとはわけが違いますから少し進歩なのではないでしょうか?
でもピアノ教師としては、理想ですが、グランドピアノ、アップライトピアノ、その次に中古ピアノ、最後が電子ピアノの順番でお勧めしています。最初からスイッチのないピアノで始めると、電子ピアノのキーの軽さを知らないので、ピアノの鍵盤ってこれくらい重いものだと思って弾くので、指がしっかり鍛えられます。
どなたかグランドピアノの電子ピアノをお持ちの先生がいらしたら是非使い勝手を教えていただきたいです。
31落ち葉掃き2014年11/30
今回はこの場をお借りして城南小学校さんに日頃の感謝を申し上げたいと存じます。
今秋はブロワーをお使いになり始めて、私がもたもたしているうちに道路の落ち葉を片づけてくださるようになりました。構内の樹木の葉っぱが隣接道路に散らかるのを学校側が片付けるのは当たり前と考える人もいるようですが、教室では同じ地域の者として掃除をしてまいりました。去年までは90Lサイズの袋で10袋以上になっていましたが半分以下になって助かりました。ありがとうございました。
住吉が新庄田中と呼ばれていた頃から借景で、四季折々楽しませていただいております。春には見事な桜。当時はアメリカシロヒトリという言葉を聞いたこともなく、ただただきれいな桜でした。草木を愛する祖父母が南芳園に植えた桜も大木になりました。現在スキー学習用の小山がある場所には昔テニスコートがあって、休みともなれば自前のネットを張って遊びました。夏ともなれば朝早く起きて樹液に寄ってくる昆虫採集をしました。セミの抜け殻は現代っ子にはごみでしかないようですが、私にとっては宝物でした。
秋にはこれまた見事な紅葉で、校庭では子供たちが一斉に落ち葉掃き。用務員さんの苦労がわかる良い機会でした。祖父母の落ち葉掃きを手伝っては御褒美に焼き芋を作ってもらいました。今では住宅地で落ち葉たきをしてはいけないとかで、やりたくともできない楽しみになってしまいました。自分の背丈以上に盛り上げたふわふわの落ち葉の中にだーんと倒れ込んで全身落ち葉だらけになって遊んだりしたので、その時の枯れ葉のにおいなどが本当に懐かしく思い出されます。私が子供の頃はすでに「今の子は自然が少なくてかわいそう」などと言われていましたが、南芳園のおかげで1年中自然の中で過ごすことができました。
腰を患ってからはすっかり掃き掃除が難しくなってしまって本当に申し訳ない思いでした。かろうじて掃き掃除をしても枯れ葉いっぱいになった袋をゴミ出しできなくて、学校にお電話して掃除をお願いしたことすらありました。そのとき落ち葉掃きに来てくださったのは音楽の先生でしたね。本当にありがとうございました。
腰の手術と共にすっかり野良仕事が難しくなりました。草ぼうぼうにしていて近隣にご迷惑をおかけしているのではないかとひやひやしています。でも身体の続く限り私も落ち葉掃きがんばりますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
30 服装 2014年 10/29
服装はその人の性格その他全てを表すものだと言う。別にとりたてて新しいことではないが、最近そんな話をすると今まで一度も考えたこともなかったみたいな表情をする方がいらっしゃるので書いてみようかと思う。
ピアノ教師はどんな服装でピアノを教えているのだろう?人それぞれ考えがあって、もしくは考えもなく、仕事着を決めているのであろうが、私は人生の中で2回指摘されたことがあった。
教育実習で高校に行ったときに高校生たちに、服装も含めて芸術なのだから、音楽を教えるからには服装にも気を遣うべきだと指摘された。自分なりに気は遣ってはいたが、一般的なセンスと体型ではなかったので、指摘されるに至ったのだろうと思う。それにしても服装も含めて芸術とは高校生は厳しい目で見ていると感じた。なので仕事のときは一応仕事モードの格好をしている。基本、子供受けする格好を心がけているので、時として保護者様にはびっくりされることもある。
もうひとつは、塾の英語講師をしていたときのことである。長いこと小学校教師をしていた先輩講師にもう少し明るい色を着た方が子供たちが情緒豊かな人間になるというアドバイスであった。そういえば、幼稚園でもカラフルにデコレーションするのはそういう意図であったか。しかしながら私が相手にしていたのは私立有名大学コースの生徒だったので、(いやらしい?でも確かに「有名」がついたコースだったことは事実(^_-))余計なことで気が散らないように白衣を着て授業をした。
自営になってからは、似合う似合わないにかかわらず色々な色を着るように心がけている。どんな格好をしようと我が大将だから関係ないと思いつつ、ジーンズだけは着ない。もっとも似合わないので履こうとも思わないが。今時は市民権を得てジーンズ姿で入れない場所もないだろうから関係ないだろうが、学生時代にレッスンをジーンズ姿で受けてはならないと学生の間で言われていたことが深く心に刻まれた。学生の頃はジーンズで何が悪い?と思っていたし、今も他人がジーンズでレッスンを受けるのはあまり気にならないし、長くてまっすぐな脚の人が格好よく着こなしていると素敵だと感じるけれど、若い時の刷り込みとは恐ろしいものだ。
さてさて、こんなことを書くとあみかの生徒はジーンズではレッスンを受けないのかとお思いになるかもしれないが、そんなことはないので御安心を。カジュアルファッションも楽しいよね。
って言うか、今は若い人たちジーンズはかないよね。(2025年記)
29 懇親会でカラオケ 2014年 9/30
先日教室の生徒/保護者とカラオケに行った。懇親会などの行事に参加する人たちが年々減ってきて、発表会すらままならないところが増えている。お楽しみ会だとすぐに人が揃うという他の教室をびっくりして眺めていたが、今年は全員参加を謳ってみたらほぼ全員参加してくださって私には大変うれしい出来事になった。レッスンで見せる顔だけ見ていてもなかなか細やかな人間観察ができなくて、結果指導にも影響する。前置きが長くなったが、今日の主題はカラオケをもっとピアノや英語の学習に生かしてほしいということだ。
ピアノだけやっているよりも、他の楽器であったり歌の練習をすると相乗効果でピアノにもとても良い影響を与えてくれる。ピアノの恩師はいつも「歌を歌うようにピアノを弾くのよ」と教えてくれた。実際歌心がないと楽器の演奏は非常に難しいといつも感じる。
英語についても、歌が語学学習に良いことは昔から言われていることで何を今さらである。私が学生の頃はひたすら英語の歌詞カードを見ながら聞くだけだったが、今時はカラオケで、英語とカタカナの2ヶ国語表記の歌詞を読みながら歌を練習できる。ガイドボーカルと一緒に歌うにしても、マイクで拡張された自分の声はやたらと耳に残って良い練習だ。録音すればガイドボーカルとの発音の違いも比較できるだろう。それどころか録画もできる。小学生でもカタカナは読めるわけで、You Tubeにアップされたカラオケ画面を見て練習する子もいる。今年大流行のLet it go.も英語で歌える人は歌ってねと予約したら、なんと英語を習っていない子でも歌う子がたくさんいて驚いてしまった。
それに最近はカラオケに採点機能がついていて、どこのだれかもわからないまま、全国のアマチュアシンガーと競うこともできる。その機能が勝手にオンになっていて画面に点数が出るので初めて気がついたのであるが、点数が出ると漫然と歌っているときと違って、少しでもいい点数が出ないかと気をつけて歌い始める。機能を使いこなせば、どこで音がはずれているかなどもわかるので、分析/練習にも役に立つ。点数が出るだけでなく全国の順位が出ることに気がついて試しに歌ってみた。今時子供が通っている教室を他人に教えないそうなので自分で自分を宣伝させていただくが、どの歌も全国50番以内に食い込むことができ、1位もあって非常に安心した。腐っても音大出身である。何曲、何を歌ったのって?またの機会にね。
28すごい生徒が来たあ!2014年8/16
あみかは単発でレッスンを受けたい生徒もお引き受けしている。私が留学中スピーチコミュニケーションを履修したのを聞きつけて門を叩いてくれるのだが、先日とても筋のいい子が来てくれた。
英語をきちんと習ったことがないというのに、めちゃくちゃ発音がいい。私の説明にも共感できるらしく、理解している様子がよく伝わってくるし、即座にその場で簡単に発音を修正できる。それにとてもリズム感がいい。複雑なリズムもちゃんと再現できる。(英語には英語特有のリズムがある。) 驚いて経歴を聞いたところ、ちょうど年長さんの頃にピアノを習い始めたという。
なあるほど。
それで耳がいいわけか。
英語は発音が全てではないが、発音にだけ限って言えば、上手な発音ができるためには、耳がいいことと口の中を思うように動かせる器用性の2つが求められる。耳が良くても口が上手に動かせないと英語の発音はよくならないし、ピアノで言えば、いくら耳が良くても不器用であれば上手にはならない。
うちの子には才能があるのでしょうか?と私に判断を依頼してくる保護者がいるが、基本そんなのわからないとお伝えしている。しかし私にわざわざ訊かなくともわかることは、音痴の子や発声の悪い子は、最初から何の苦労もなく歌える子に比べて、ピアノも英語もスタート地点が遅れているということだ。母国語の発音のおかしい子も同じことだ。それでも子供はどこでどう伸びるかわからないので、決めつけないで教えることにしている。それにしても良いスタートを切れるのは幸先がいい。
とはいえ、すくすく伸びていかないのが世の常。神童だと思った子供がただの人になるし、「トンビが鷹を産む」や「カエルの子はカエル」という諺もあるくらいだから、人それぞれで、どんな人でも化けるチャンスはある。だからスタート時点で音痴だからといって、あきらめることもない。
しかしながら、今回はピアノを習う時期だけはまちがえるなと日頃口をすっぱくして話していることが証明された結果になって私は非常にうれしい。お盆が終わって2学期がスタートするが、年長さんで、まだピアノや英語を習うか躊躇している方々は是非この時期を逸しないでスタートしてほしい。私なぞは年長さんの時期だけでいいしどこの教室でもいいから習ってくださいと頼んでいるくらいだ。
ということで、「どんな楽器を習うにしても、年長さんは習っているべき時期です」と繰り返してお伝えする。
27あいさつ どのように教えていますか?2014 7月31
今年も夏休み子供科学相談の時期がやってきた。1984年から30年続いているNHKのラジオ番組で、幼い子供と大人のやりとりが楽しくてずっと聞いている。
さて、ここ10年位だろうか、子供たちの挨拶が変わってきた。促されないと言わない子供が増えた。積極的に大人が「おはよう」と声をかけると、小学生位でも「おはよう」とため口で答える。幼稚園位がそう言うとあどけなくてかわいいが小学生となるとギョッツとする。
年功序列が廃止され、個人情報なのか年齢を実の子供に教えない親も増え、目上を敬う意識が薄れてきた昨今は普通なのかもしれない。ましてや韓国は儒教の国ですと紹介する時代である。日本も儒教が色濃く反映した国ではなかったか?
今年の放送初日では、ついに子供から「ありがとうございました」と言うことはなくなった。初日に何かと起こるのは世の常だが、聞いていて非常にあせった。対応の仕方を変えて数日のうちに「ありがとうございました」を言わせるところまでたどりついているのを聞いて胸をなでおろしたが、ここまで挨拶やお礼を実践させるのに手間取ったのは今年が初めてな気がする。公の場所で赤の他人に教えてもらうことに親は抵抗がないのだろうか?私などは自分のしつけが行き届いていないことを全国に知らしめているようで嫌だ。
最近の教育現場でよく言われるのは、大人がお手本を見せていれば子供は自然に真似するようになるということだが、そんなにできのいい子供は40人中1人位だ。門前の小僧習わぬ経を読むということわざがあるが、そんなのひとにぎりだと私は日々感じている。
付き添いが必要な小さな生徒の保護者は私にありがとうございますと言ってくださるが、それをまねるようになる子供は本当に少ない。私がしびれをきらして教えてしまうからかも。
実の子供に向かって「ありがとうございます」という親もいたが、それを言われた子供は5年以上経っても御殿様のままだった。なぜ、そんなまどろっこしいことをするようになったのだろう?こういうときはこう言うんだよと教えて何が問題なのだろう?
物覚えの良い悪いはあるが、だいたいの子はこうやるんだよと教えられると素直に従ってくれる。ごく一部の、親子関係や師弟関係がこじれてしまっていたり、反抗期の子供の対処のしかたではなかったのか?どうしてほんのひとにぎりのできない方に基準を合わせるようになったのだろう?それが弱者に優しい世界と言うのかな?
26死ぬ準備してる? 2014 6月
今日は私の叔父について書こうと思う。当初「本当のことを言ってくれる人に耳を傾けよう」をテーマに書こうとしてそれをしてくれる叔父について書き出してみたものの、紹介だけでどんどん進んで行くので、彼をテーマにすることにした。
この叔父、音楽を専門に勉強したことがないのに非常にセンスがある。音楽評論家が自分自身は楽器を演奏しないのに批評が確かなのと同じである。子供時代は神童だったそうで、のど自慢を総なめにしたとかしないとか豪語していたが、県内片田舎の話なのでそれについては話半分に聞いている。実際私が音大生になったころはさっぱりであった。しかし生来音楽が好きで趣味で合唱団に属して数年すると、ちゃんと自分の思い通りに声が出せるようになった。4年制音大を卒業した私としては本当におもしろくない存在であるが、どこの大学を出ようと出まいと力のある人間は力があるのだ。大学のネームバリューにすがって暮らそうとしている私が日々の勉強をさぼることを抑制してくれる。
ピアノも学校のピアノを弾かせてもらったそうで、独学で「トルコ行進曲」「乙女の祈り」などを弾く。物のない時代に育った人たちの強いあこがれと努力は、現代人にはすっかり失われてしまったのだろうか?とにかく頭が下がる思いだ。今はケーナを趣味でやっていて銀座のどこかで弾いたりするとおひねりをもらったりするんだよと話す。
大学3年のときに、盛岡の恩師の教室で模範演奏を弾かせてもらうことになった。高校のときに同じ門下の先輩がラヴェルを弾いて以来大ファンになった私は迷わず「水の戯れ」を選んだ。今でこそ演奏会で弾く人が増えたが、当時はショパンやリスト一辺倒でそんなに一般的な曲ではなかった。その曲を叔父の前で意気揚々と披露したらなんと叔父はその曲を知っていたのだ。まずそれが驚きその1であった。次に出たコメントが「水の一生みたいなものが表れてない」「光が差し込んで水が輝いている様が音に表れていない」で、頭を殴られた気分であった。ちょうどこだわって練習している部分であったからだ。驚きその2であった。
それ以来演奏会があるときには、必ず聞かせるようにしている。相変わらず頭にくるが本当のことを言ってくれる人は少ないので非常に頼りにしている。その叔父が19時間の癌の手術から生還した。今は「死ぬ準備を始めなさい」という忠告に思いっきりストライキを起こしている私である。
25このコマーシャル知ってる? 2014年 5/30
それはリッチな体験だった。
Milk tea, or royal milk tea?
えっと。。。ロイヤル。。。
というコマーシャルをご存じだろうか?
あれを見るたびに日本人の国際感覚なんてまだまだこの程度かと不快な気分になる。
何が気に入らないのか?きれいな女性のモーションに気を取られて、ついついroyalと言ってしまうところではない。pleaseを言わないことだ。多分ネイティブは子供の時からきっちり教えられていて体にしみ込んでいるから、あんな場面でぽーっとなってもpleaseを言い忘れることは絶対ないだろうと私は決めつけてしまう。散々英語の時間に指導しても、実際に見聞きする英語がこれでは人にものを頼むときにpleaseと言えるようになるのは難しいだろう。
なんといっても昨今日本は「お客様は神様です。」の精神が歴史上類を見ないほどのピークに達しているから、サービスを提供する側は、態度の悪い客にあっかんべーと思っていてもひたすらハハーッとかしずいて、お客様はますます高ビーな態度に拍車がかかるのである。
欧米では、小学校に上がるまでに、Thank youとPleaseは言えるようになるのが普通だ。言えるようになるのではなく、親がそう教えるのだ。最近の日本みたいに、「親が言っていれば子供も自然と真似するようになる」なんてそんな悠長なことはしていない。その場で教えて練習を重ねるのだ。言わない子供にはWhat
is the magic word?と質問すると、たいていはどの子も「私知ってるよ~!」と言わんばかりに得意げな顔でPleaseと頼む。(2012年11月に投稿した「ハロウィンにめぐらす思い色々」にも関連事項を書いたので是非そちらも参考にしていただきたい。)
だから日本に来るアメリカ人(もっぱらアメリカ人と接触が多いのであえてそう書かせていただく)は、普段母国で普通に行われている良いとされている習慣を、外国である日本でも実践しようとするので、日本語は話せなくとも「ありがとう」と「お願いします」は言う人が多い。それを考えると、恥ずかしがることが許される日本では、気持ちがあっても必要な言葉を言えないことが許される傾向にあって歯がゆい。しかしながら昔はどんなに恥ずかしがり屋でも、言わなくてはいけないことはきちんと自分で言える芯の強い子供が多かった気がする。。。 あっ!「昔は。。。」が飛びだしてしまったので、今回はこれくらいにしておく。
あんた何さま?どんなに育ちがいいの?いえいえ、親にお水~!と言って、お水ちょうだいでしょっ!と注意された程度である(*_*;
24こぴっとコミットについて教えてほしいずら(2014 4月)
「コミットしている」という表現がオバマ大統領来日の共同声明で使われたが、いつのまに日本語として市民権を得たのだろう?初めてこの言葉に出会ったのは大学受験のときで「言質を与える」と暗記した。ゲンチってなんだあ?と更に辞書を引いたが、それ以外にも複数意味があって、未だに英語も日本語も自分は使えない。しかしながらここ30年の間に日本語化したようで、最近「コミットする」と耳にするようになった。とはいえ、三省堂ワードワイズ・ウェブによるとこの言葉の理解度は国民の25%(2003年現在)と書いてある。4人に1人しかわからないのか。そんな言葉を国民向けに使っていいのかな?ここ10年の間にどれくらい認知度が上がったのだろう?
日本語英語は昔に比べて随分減ってきたとは感じるが、日本語化するときに意味が変わって使われる場合もまだまだある。例えばrevengeの第1義は「復讐をする、仕返しをする」であって、スポーツでいう「雪辱をはらす」とは相当ニュアンスが違うと私は感じる。さてさて、コミットはどうなったかと思ってインターネットで調べてみた。
複数のサイトを見てみたが、英語と同じように複数の意味がそれぞれに使われているようだ。まず、言質とは「後で証拠になるような約束の言葉」だから、約束するは約束するでも、公約する、誓約するなど、公的な場面で約束する意味で使われる。約束すれば、今度は約束したことを守るため/実現させるために、一生懸命取り組むだろうから、専心する、関与するという言葉も派生するのだろう。
「日米安保条約の下でのコミットメントを果たすために必要な全ての能力を提供している」は、日米安保条約という約束を果たすためにアメリカはやれることは全部やっているということか。
「両国は、高い水準で野心的で、包括的なTPPを達成するために必要な大胆な措置を取ることにコミットしている。」とは、TPP達成のために大胆な方法を取ることに必死で取り組んでいるということか。ふーん、アメリカの新聞は小学6年生がわかるような表現を心がけていると聞いたことがあるが、日米共同声明ではちょっと違うようだなあ。それとも英語を日本語に直す時に生じた誤差であろうか?それに、より具体的な表現を好むアメリカ人が抽象的な表現を選ぶわけがないと思ったら何にも決まってないとの報道だった。yes-manと言われた日本も変わってきているからねえ。タイトルは朝ドラ風だけど硬い話でした。
23子供たちにチャンスを作ってあげようよ 2014 3月31
先月脅すようなことを書いたので、今月は習い事を始めるか迷っている人の背中をポンと押してあげることを。
「趣味の域」とは人によって定義はいろいろだし、習う目的は人によって違うのだし、自分の勘を頼りに踏み出してみれば?「習うより慣れろ」だ。
ピアノを習う理由は人それぞれ。単純にピアノが弾けたら楽しいだろうと始めるだけでなく、小学校に上がる前に耳を訓練すると英語の発音がネイティブ並みになることがあるとか、ピアノが弾ける子に学校の成績が良い生徒が多いと言われているのでそちらの効果をねらって習わせるご家庭も多い。
私自身は、生徒さんそれぞれの目的が実現できるようにとご指導させていただいている。スタート時点で生徒を選ぶタイプの教師ではないので、手とり足とり丁寧に教えてもなかなか上達しない生徒に当たると、自分の指導力を疑ってみたり、世間的に評価されないのではないかと不安になる自分がいるが、スタート地点がみんな違うのだから、少なくとも私が身に付けた能力は全て伝えようとベストをつくしている。
思春期を迎えるとゆっくり進んできたタイプの子供も習熟速度が加速されることが多い。絶対楽譜が読めるようになることはないだろうと予想してしまうような子供が読めるようになって、合唱部や吹奏楽部に入って自分の居場所を見つけているのを見ると、少しは役に立てたかと思う。例えば混声4部の合唱部であるとパートリーダーは4人しか必要ないが、リーダー的立場にならなかったらピアノを習っている意味がないのか?となるとそんなこともあるまい。音楽活動に顔を突っ込んでいることがピアノを習って音楽に興味を持てた証拠と言えないかな?過小評価しすぎ?
音楽は聴くだけの人もいるが、大好きが高じて音楽評論家のように雑誌に執筆する人もいる。大学の時に日本のロック史という授業を取ったが、FM東京で番組司会をしている方が講師だった。
作曲を始める生徒もいる。趣味でも楽しいし職業に結び付く人もいる。そういう人たちは、ドレミの感覚はピアノを始めとする様々な楽器で身につける機会があったのだろう。
そんなことをつらつらと思ってみると、更に豊かな時代になったと思う。多くの人がどんな形であれ音楽と身近に暮らしている。そうなると逆に音楽の入口位習っておかないと社会人として最低限必要なものが欠如しているような不安にもかられる。あれ?勇気づけるはずが脅しになってしまった?
22新学期で習い事を始めようかなと思っているおうちの方へ2014/02/28
今日はいつにもまして言い古された話で同世代の方は何を今更とお感じになると思う。でも年々親から子へ伝承されるものがすごく減ってきていると感じるので、子育て進行形の方々には新しい話に聞こえるかもしれないので書いてみることにする。
テーマは「ピアノは小学6年生位で趣味の域なんかに達せないよ」である。まずは非常に語弊がある表現であることを断わっておく。十人十色だからである。保護者様は有名な曲を1曲2曲ぱらぱらと弾けるようになれたら。。。とおっしゃるが、素質のある子が頑張れば小学校6年間かけなくともその域まで到達できると思うが、多くは昔でいうバイエル(という教材)で終わってしまう。ピティナなら応用7位までは頑張ってほしいものだ。
小4位で始まる吹奏楽や合唱は、ピアノ学習者にとっては楽譜が読めたり音程がしっかりしている分だけ早く上達する可能性がある。そうなると得意意識も出てくるだろう。今時は皆平等とやらでパートリーダーすらいない所があるらしいが、昔だったら指導的立場を任されたりして自信もつき責任感も出てくるところだ。
私自身はピアノをきっかけにピアノを極めるのも良し、他の楽器や歌に目覚めるのも願ったりかなったりなのだが、ピアノがそこでスローダウンしてしまうのでつらい。私自身もずっと合唱をやっていて、ピアノ以外の音楽活動がピアノにもいい影響を与えることを知っているのでやめろとも言えない。
バイエル位で終わってしまうと、パートリーダーに求められる初見視奏もできないし、バンドを組んでもアンサンブルのところまでたどり着けない。もっともバンド仲間の話だと楽譜は読めなくても問題ないという話で、耳さえ良ければ後は努力でなんとか。。。ということらしいが、それはそれで認めはするが、楽譜がもうちょっと読めたら、違う世界も体験できるのにとクラシック畑にいる私は思ってしまう。
クラス全員女子がピアノを習っていてバイエル位はだれでも弾けるという時代は終わって、ピアノを弾ける人間が減ったようにも感じられる。そうなると私などはせめて当時のレベルまで生徒たちを引き上げたいと感じるのであるが、やりたいことがたくさんある時代とても難しいことのようだ。肩肘張らずにまずはやってみるという姿勢も大切だが、習うからには元をとる位の覚悟もほしい。せめてここまでは頑張ると習い始めに目標を設定したらどうだろう?やっぱり発想がバブル世代?
21朝ドラ「ごちそうさん」より 火を噴かれても 2014 1/31
12月26日NHKの朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の1シーン。ネプチューンの泰三扮するめ以子の父親が、悠太郎が直面している小学校建設について、近藤正臣扮する悠太郎の父親と交わした会話。
悠太郎父:どの位(西門家の内情を)ご存知か知りませんが、(親父面して相談に乗ったりしたら悠太郎が)頭から火を噴きますよ。
め以子父:けど、それが親の役目じゃないですかね。火を噴かれても言ってやるってこともね...
いきなり話が脇道にそれるが、朝ドラは政府の指導があるのかもと思うことがある。戦後の混乱が描かれると、東日本大震災後の混乱とだぶるし、ごちそうさんは、インスタント食品にどっぷり依存している食生活に対する警鐘なのかと感じる。単純に私の世代のスタッフがドラマ制作のトップに就けるようになって感覚が似ているのかも。まあ妄想はこの位にしておこう。
さて、火を噴かれても….のくだりであるが、私はまさにこの言葉を聞いて育った。本当のことを言ってくれるのは親しかいないのだから耳を傾けなさいとずっと言われ続けた。今も言われ続けていて、最近は本当のことを言ってくれるのは子供しかいないんだからなどと悪態をつきつつ日々暮らしているが、一応わかっているつもりである。だんだん年齢が上がってきて忠告してくれる人が一人二人といなくなってくると本当に実感する。
中学高校時代、現実逃避で寝てばかりいる私に母は毎日今がどれほど大切なのか言い続けてくれた。親の言うことも十分わかったが、意志薄弱の私はとにかく勉強の習慣がついにつけられなかった。思春期のなせる業だったのかと思ったりもするが、生来の私の気質のように思う。大人になって「なぜあのとき言ってくれなかったの?」と親に言う人がいるが、私の場合散々言われたので少なくとも私は悔いはない。わかっていて勉強しなかったのは私だし、粘り強く言い続けてくれた親に感謝である。
最近は、そんなに言ったところで逆効果だからと言って放任している親が多いように感じられる。見守りだったら適切だろうが全く子供を見ていない親も少なくない。子供の人生は子供が決めるのだからというのも親の言い分も納得はするが、それは物事の判断がいろいろできるようになってきた大きい子供に対して言えるのでは感じる時がある。上手に種を蒔いて、上手に育つのを待ってあげたい。必要とあらば火を噴かれても言ってあげる強さも時には必要なのではないかな?
20 11月ブログのご報告です 2013 12/30
ええっと~、12月用のブログを慌てて書き終えて、アップするためにピアノ教室COMにログインして、29日のアクセス件数を見ておったまげました。(驚きましたなんて表現では済みません。私の中では炎上です!)こんなことここ10年近くないことです。となると皆さん11月の内容をお読みになったからご覧になっていると判断、急きょ内容を変更して11月のブログの続きを書くことにしました。
多分タイトルにごめんなさいと書いたせいなのでしょう。結果アクセス件数が飛躍的にアップしました。謝罪のせいで、大して興味もないのについついという方も多かったと思われます。でもわざわざ、日本1,2を争うピアノ教室なるものがどこか問い合わせる方もいらっしゃったので(!)、当初だんまりを決め込んでおりましたが、ご期待に応えるべくこうして書いております。(ご興味のある方は11月のブログをご覧になると多少話の流れがわかるかと。。。)
私のホームページは作ってから10年近くになるのでアクセス解析のデータも蓄積され、年間推移などの流れを把握しています。そのアクセス解析とは別に、大手が運営するサイトも見ていて、その1つにアクセス件数がわかりやすく表示されるサイトがあったので、数値が毎日記録されるようにしておきました。
その中で、ホームページもなく、教室の立地条件もAAAというわけでもなく、今時アップライトだというし、ブログなどを書いている様子もないのにやたらアクセス件数が多いところがあるのに気が付きました。東京でさえ及ばない件数なので、その教室の数値は一目でサクラによるものだという推測に至りました。それにしても何かいいところがあって人気の教室なんだろうと良い方に解釈するようにしていましたが、インターネットなんてそんなもんだと今更のように思い直し自分の教室を削除してもらいました。するとそこの教室のアクセス件数は翌日から加速度的に増え始め現在にいたります。
更に面白いのが、私がちょうどこのことをブログに書いた翌日からその教室の数値は毎日どんどん減り始めました。今までの年間の推移を加味しても説明できません。どうせ操作するなら他の方法はなかったのかな?と余計なことを考えました。
自分もまさかこんなゴシップ内容を書くことになるとは。。。まっそんな大した人格者でもないし。(開き直り?無駄な正義感?)一応お問い合わせにはこれで回答とさせてください。
どうぞ良いお年を。
19読んでくださる方へ ごめんなさい 11/30/13
今日は11月も最後の日で、私の中で勝手に決めている1か月に1度は必ず何かについて書こうというノルマの最終締め切り日である。当初、先月の話つながりで、NHKで特集していた「土下座」について書こうと思っていたが、どう話を展開したらいいかわからないことに気が付いた。
土下座は元来、大名行列に出くわした庶民が土下座をして行列を見送ったところから始まったということだったが、薬害エイズ関連で土下座した企業幹部がニュースで報道された頃から様相が変わってきて、最近では店の従業員などに些細なことで土下座を伴う陳謝を強要する客が増えてきているという話であった。最近の、お金を払う人は何をしてもいいという雰囲気を象徴しているかのようだ。
月1のブログを始めて以来1年数か月、なんとかやりくりしてこなしてきたのに、今夜はとりたてて忙しいわけでもないのに、どうしても間に合いそうにない。どうしたものかと頭を悩ませたが今から書いたところで最低1日は寝かしたい。とりあえずお詫びを書くことにした。
このブログをスタートさせて以来、あみかのホームページのアクセス件数が飛躍的に伸びた。ブログを更新するたびにはっきりアクセス件数が増えるので読んでくださる方がいらっしゃることがわかる。
私自身はアクセスすることがないし、今年の9月まで教室の生徒たちに話したこともなかったので、比較的その数字を信用している。(これからは関係者がアクセスして、あまり数字に信憑性はなくなるのかもしれないが。)
何よりここピアノ教室comのアクセス件数は管理者しか見られないので、偽客によってわけのわからないアクセス件数になることがないのが気に入っている。ご存じだろうか?ここ盛岡において全国1,2を争うアクセス件数を誇るピアノ教室があることを。人口1,300万人の東京が足元にも及ばないアクセス件数だ。
今回は間に合わなくてごめんなさい。12月中には書くようにします。ぺこり。
18 謝らなくなった日本人 2013 10/31
最近レッスンに遅刻してきても謝らない生徒が増えた。あまりひどいときは「何分から遅刻とみなすと思う?」などと皮切りに聞いてみるのだが、カエルの面に水でさっぱり効き目がない。そんな折、謝ることがどう変化してきているのか巷の様子を探ってみた。
従来日本には謝らなければ始まらないという考え方があったが、最近では海外企業の進出により向こう流の接客マニュアルも入ってきて、随分と様変わりしてきている。その1つに「すみません」を「ありがとうございます」に置き換えることが挙げられる。「○○ご遠慮ください」であったものが、「○○のご協力ありがとうございます」となるのは肯定的だし相手の意図することが十分理解できるが、最近は首を傾げたくなることも増えてきた。
先日外資系喫茶店でナプキンが切れていたので出してくれるよう頼んだところ、「教えてくださってありがとうございます」との返事。本来あるべき所にあるものがあるように目を配るのが仕事の1つで、それを怠っていたのだから、第一声には「すみません」を期待してしまうのだが意地悪であろうか?多分私なら、不便をかけたことに対して詫びるだろうし、指摘してくれたことに対して礼を言うような気がするが。。。うざい?
別の日には、ラジオのアナウンサーがうっかり時刻を間違えてしまったときがあった。「間違えてお伝えしてしまってたくさんのご指摘をいただきました。ありがとうございます。」と話していた。ありがとうであってすみませんではないのだ。昔堅気の人間としては、こんなときも第一声はやはり「すみません」の一言ではないかと感じるのだがいかがだろう?本来謝るところを、「ありがとう」にすり替えてごまかしているように感じてしまうのは私の性格がひねくれているから?
I’m sorry.という言葉は、自分の非を認めるということだから、海外ではそう簡単に使ってはならないと言われたことがあった。確かに訴訟に明け暮れる国では、その一言に判決を決定づける深い意味があるのだろう。そういう文化が日本に流入するにつれ、世の中がギスギスしてきたように感じる。基本、日本のごめんなさいは、人間完璧じゃないしお互い様だからねの気持ちが含まれているのではないかな。
幼稚園児の喧嘩を見ていても、喧嘩両成敗、ごめんなさいで仲直りねという指導も非常に減ってきていると感じる。こんなこともきっと謝らないで良しとする考えを助長しているのだろう。
17泣かないで 2013 9/30
私は周りがびっくりするほど泣き虫で日常生活に支障が出るほどだ。他人は「あなたは優しいから」と肯定的に表現してくれるが、ふつうは「あなたは弱虫だから」と言うところである。自分自身も直したいと思って本を読みあさったことがあるが、読み得た知識を使って実践はしていないので、歳を重ねて涙腺はゆるむ一方である。
涙を上手に利用する人間がいるという話があるが、私の場合自分の意志とは関係なく涙が勝手に出てくる。しかし最近は、自分が気がつかないだけで、心のどこかに弱さであるとか、ずるさであるとかがあるのかもしれないと考えるようになった。
泣くと頑張れない。私の場合そこで全てが中断してしまう。子供に教えるようになるまで考えたこともなかったが、習う立場で泣いた数々の場面を思い返した。
一番最初に思い出したのは、東京芸大の教授にレッスンを受けたときのことであった。指摘された所をすぐに修正できない自分が悔しくて泣いてしまったのであるが、いつまでも泣きやまないのでレッスンは打ち切りになり、当然慰めてもらえるものと思っていた恩師には「泣くのはダメよ」と活を入れられ、それ以来大学受験のときまでその教授のレッスンを受けることはなかった。今思えばそこで淘汰されるはずだったのかもしれないがそこがわからないのが私らしい。それ以来大学受験の準備や、大学の通常のレッスンなど、事あるごとによく泣いた。アメリカにいるときは、中村弘子の言う「血のなせる業」を肌に感じてレッスン中にわんわん泣いたこともあった。
帰国して教職に就き、黒人霊歌を教えたときは、アメリカで実際に見聞きした人種差別や友人を思いだし生徒の前で泣きだしてしまったこともあった。どの場面を思い出しても泣いてはいけなかったと感じる。
最近泣くことは良いことだと言われるようになった。それは私も同感だ。ただ、いつも思うのは、できなくて泣く、負けて悔しくて泣くのではなく、感動して泣くことに限られていることを現代の日本人は忘れていると感じる。
オリンピックで勝って泣いていい場面で、じっと感情を押し殺している日本人に対して言ったのではないのか?大震災で一度に全てのものを失い、自分の感情とどう向き合えばいいのかわからなくて封印し究極の状態に追い詰められている状態の人間に対して泣いてくださいと言うのではないのか?
自分も含めて弱虫の人間に、泣くなっ!歯をくいしばれと言いたい。
16折り鶴と貞子 2013 8/19
生徒達の米国旅行&英語レッスンの引率で毎日起きてから寝るまでがずっと忙しく、普段以上に世間知らずになってしまった。それを取り戻すわけでもなく時差ぼけのまま何気にテレビを眺めていたらいつのまにか終戦記念日。忙しさにかまけて教えずじまいにしてしまった1つの大切な教育のチャンスを思い出して悔やんだ。
子供たちに、お世話になった人達にthank you.の言葉と一緒に鶴の折り紙を渡すように伝えたのに、確認しないまま帰ってきてしまった。
散らかしたままにしているのでどうしてなのか指摘しようとも思ったが、チェックアウトは私ひとりがすればいいことだから、子供たちがその場に居合わせる必要もないしとないがしろにしてしまった。
8月になると、小学生のときに学校の先生に教えていただいた、千羽鶴の貞子の話を思い出す。被曝した少女が白血病に倒れ、元気になることを夢見て千羽鶴に願いを託したが願いかなわず他界してしまう実話である。教えていただいてから十数年後アメリカでその話をするまですっかり忘れていたがたまたま話す機会があった。女の子の名前もわからずストーリーだけを説明したが、アメリカの人達はすぐにわかって口々にサデァーコゥと連呼して日本人の私に教えてくれた。日本よりアメリカで有名なことに驚いたし、彼女のことを忘れていたことを恥じた。
さて、現代の日本はどうであろうか?多分今もその話を知っているのは広島の平和記念公園に行ったことのある日本人だけなような気がする。それどころか鶴の折り方を知らない人間が増えた。昔は折り紙をし、あやとりをし、箸で食事をする指先の器用な日本人と言われたものだが、最近はそれにあてはまらない人が増えている。テレビで有名人がすごい箸の持ち方で食事をしているのを見たりすると興ざめである。それでも現代人は形式より楽しむことが大切と言い張るのであろうか? 生活習慣がすっかり変わってしまったのだからそれはいたしかたのないことではあるが、上手にできていたものができなくなるのはいささか悔しい。
今でも公園には、大きな折り鶴をかかげた貞子の象があるし、いたるところに千羽鶴が飾られている。ただの折り紙でしかない鶴ではあるが、平和への祈りやその他いろいろな思いが込められた特別なものでもあることを日本人として是非覚えていてもらいたいものだ。
今日も貞子は病気で苦しむことのない世界を、原爆のない世界平和を祈って公園に立ち続けている。
15終戦のエンペラー 2013 7/26
今年の夏は「終戦のエンペラー」が公開される。留学中「ラストエンペラー」をリアルタイムで見た私としては、気持ちを非常にかきたてられる。当時、日本人である前に1人の人間だ、日本人アメリカ人なんて関係ないっ!と息巻いていた私であったが、映画の中で玉音放送が流れたときはあたりかまわず泣きじゃくった。
偶然が重なって、この夏、英語を習っている生徒達は昔私がお世話になったホストファミリーのところに行ってくる。帰国してからも細々とでも途切れることなく続いた付き合いに感謝である。
外国に行って自分が日本人であることを考える人は多い。ビートたけしが映画監督として海外に行くようになってから、「ここがヘンだよ日本人」という番組を始めたり、ダンスで海外に盛んに行っていたナンちゃんも、そのうち狂言を始めた。日本人であることを意識するようになったのだろうと推測している。それ以外にも茶道や華道、空手、柔道など日本的な習い事を始める人が多い。1人の人間ではあるが、日本人という看板も背負っていることにいろいろ考えることがあるのだろうと思う。
アメリカで、日本人なんだからピアノじゃなくて何か日本の楽器をやってみてよと言われたことがあった。そうだなと思ったが、日本に戻ってから始めたのは華道であった。多くの女性に教えてくれと頼まれたからだ。一応師範の資格を取るまでは続けたが、わびさびの世界は私には寂しすぎて性に合わないと気がついた。日本人なのに日本らしいものが好きじゃないのは自分でもちょっと悲しいが、こればっかりはしかたがない。
また、気持ちさえあれば必ず人は通じあえると多くの人は思っているが、異文化の中で実際生活したことの有る人は、それが本当であってうそであるという矛盾も知っている。バイブルスタディ(当時留学生を相手に聖書の勉強会が行われていた)の最中、所変わればキリスト教布教は非常に困難だと言って自分の海外赴任経験を話してくれた宣教師の話を、周りは努力不足の一言で片付けてしまった。言葉の壁や、文化の違いを日々感じ、黒人と白人間の人種差別を傍観していた私は多少なりとも彼が言いたいことが理解できたような気がした。
言語の学習はそれだけでは終わらない。言葉の背景となっているものも理解しないと言語習得の効率は悪い。子供たちには楽しい語学研修になることをもちろん希望しているが、戦争の爪跡などもしっかりと見てきてほしいと感じる。
14英語を取り巻く環境いろいろ 2013 6/30
今回は別にテーマがあるわけではありません。結局何を言いたい文なの?別にないです。ただつらつらと書いてみました。1ヶ月に1度は何か書こうと思っているので。
昨日同窓会があった。
小学校から一緒だったやつらと何気に話していたら、英語なまりの日本語が出てみんなに冷やかされた。
私以外に留学していた人もいるし、国際結婚をして日々外国語が飛び交う中で日常生活を送っている人もいるし、外交官になった人もいるし、仕事で海外赴任をしていたことがある人もいるし、自分の子供が留学している人もいる学年なのにである。
思えば私がせっせと語学習得にいそしんだ時代は、歌手が歌の中で1フレーズ英語を発音しただけで大騒ぎになった時代である。英語の歌詞の曲を次々に発表している歌手やグループもざらにいる現代では想像のつかないことなのであろう。というように、英語を話すことが普通になった。そういう人達にとって、英単語を日本語のように発音しようが、英語らしく発音しようがどうでもいいことなのである。
ただ、日本語と英語の間を行き来している人達の中には、日本語のときは日本語をきちんと話すと心がけている人は多い。そうしないとボキャブラリーが増えないからだと聞いたこともある。あっ、その観点から言うと、語彙が増えないからである。私もそうやってきっちり切り替えができる人を素敵だと憧れていたのだが、性格的なものと能力のためか、私は今一できていない。
今現在、教室の生徒が夏休み短期留学の準備をしているが、私も引率するので同じく準備に追われている。そんなときアメリカの大学に通っていたときのスピーチコミュニケーションのクラスの録音が出てきた。当時はなんとかそこそこのレベルまでたどりつけたと思っていたが、今聞くと聞くに堪えない。しかしそれがわかるほどに私がまともになったと解釈するようにしている。今回引率する生徒達はまだまだ成長の余地はあるが、すでにきれいな発音が身についていて、発音に関してだけ言えば新しい言葉を正しく教えるだけの作業で済むようになってくれたので、今度の体験も是非今後の英語学習/人生に役に立ててもらいたい。
私のことを心配してくれる私側サイドの人間は、なぜそんな危険を冒してまで赤の他人の生徒を連れて行く必要があるのかと大多数が反対に回った。海外研修の引率なんてめずらしい話ではない程度に思っていたが、私は相当ばかのようである。天の父なる神様、仏様、アラーの神様、他世界中の全ての神様、どうぞ私達をお守りください。
13たばこ事情昨今 [2013 5-18]
私は口うるさいおばさんだったが最近はかなり静かになった。そんな人間もいるから世の中まともでいられると思っていたが、通りすがりの若者を注意して殺された看護師の事件以来注意することはすっかりやめてしまった。あの事件以来日本人はたががはずれっぱなしのようだ。
先日女子会があった時のこと。竹を割っただけでは足らず、根元からタケノコを掘り出し食らいつくような性格の友人がいるのだが、待ち時間にたばこを吸っていてバスが来たので地面で消してそのまま捨てようとした男性に、ここは捨てる場所ではないから、灰皿のある所まで持って行くか、携帯灰皿を持ち歩くかどっちかにしろと単刀直入に言ったと言う。
いつものことながらあっぱれと思ったが、いつか刺されるんだからと警告した。いつか刺されるかもよと思いながら他人に注意する世の中ってなんなのだろう?
しかし友人もさるもので、大丈夫、注意するときは、注意しても大丈夫な相手かどうか見極めてから注意するし、彼女を連れていたからまさかからんだりはしないだろうとふんだそうな。更に、彼女と一緒にいるときにそういうばつの悪い思いをさせて申し訳なかったが、自分が愛煙家としてマナーの悪い者を許すわけにはいかなかったと言う。そして、バスをひとつ見送って、次のバスに乗ったとのこと。それは自分の身を守るためではなく、彼のことをおもんぱかっての行動であった。
くやしいかな、私はそこまで頭が回らない。。。。
マナーも随分改善されたように思うが、家の周りは放っておけば吸い殻がちらほら。動物とさほど変わらないらしくなぜか電柱の下に捨てられる。隣の学校の運動会ともなれば、愛煙家は我が家の前に抜け出してきては、空き缶を灰皿代わりに地べたに座り込んで我が家を眺めながら夫婦そろってたばこを吸っていくし、武道の大会があればこれまた吸い殻が増える。武道精神ってそんなものだったか?
たばこが捨てられる場所もちょっと路地に入った所、それもわざわざ私有地に投げ込んでいく。公共の場所はだめで、他人の家の敷地ならいいということか?そんなことも考えていないだろう。更に、ピアニッシモなど女性が好んで吸う銘柄にべったり口紅がついている。今時男も女もないのであろうが、何も悪いことまで真似する必要はないだろう。とにかく、たばこを吸い続けたいのならマナーは守るべきだ。マニアックに1つ1つ吸殻のDNA鑑定でもしてみようか?既にしてたら怖いね~。
12 Yes or No 2013 4月
アメリカ在住の際、Yes or no?とよく聞かれた。度重なるどちらともとれる返事に困ったようであった。しかしそこをはっきりさせるのがアメリカ流なのだろう。ではグレーゾーンはないかというともちろん存在するが、比較すると日本より少ないということだ。自分の気持ちを声にすることは日本より重要なことだと学んだ。
そうなると英語をかじっている人間の間で話題になるのは比較文化論であったが、日本人夫婦は、夫が「おい」と言えばお茶が出てきて、次に「おい」と言えば新聞が手渡される。日本人の気配り、今風に言えば空気を読む能力はすごいという話になったり、亭主関白は困ったものだとなるときもあった。(現代の日本人夫婦は逆転しているようだが)
それに対して、アメリカ人夫婦は一日に何度もI love you, honey. Me, too, darling.などと確認し合う。また、私がお世話になっていた家庭では3年間毎日欠かさず私にコーヒーにミルクや砂糖を入れるのか否かを聞いてくれた。
そこで日本人の間で話題になるのは、そんなこと1回2回確認すればわかるだろうというのが多くの日本人の感覚で、何度でも確認しなくてはわからないというのがアメリカ人の感覚であって、この感覚のずれはずっと平行線のままだというのが20年前の結論であったが、今はどうだろう?
Yes or Noの話に戻ると、私は生徒達に自分の考えを声にするようにいつも指導している。それが良いかどうかは考えることも多々あるが、私の基本姿勢である。よく沈黙を意思表示の手段にする人間がいるが、本人は意思表示のつもりかもしれないが、されたほうは何が原因かさっぱりわからないし、問いただしてもそうだともそうでないとも言わないので皆目だんまりの見当がつかない。第一私はその手法は卑怯だと感じる。
子供の頃兄弟喧嘩でなんでだんまりするんだと兄に言ったら、お前に説明したところでわからないから時間の無駄、黙っていた方が話がこじれないと説明されたことがあった。まあそれなりにだんまりの手段を使う理由はあるようであるし、親子、夫婦、友人、仕事、師弟間でも普通に使われる手法であるのかもしれない。しかし、それをやられると私は非常にしんどく感じるので、他人を思いやれる気持ちがあるのならその手段は使うべきでないと生徒に指導する。20年前の世界の日本人の見方に、日本人はいつもうすら笑いを浮かべながら何も言わないから気持ち悪いというのがあったせいかもしれない。
11雪かき [2013 3ー3]
子供の頃からなぜか雪かきが好きだ。母親が1年に1回はぎっくり腰で寝込むので、勝手に自分の仕事と決めていた。路地の舗装工事以来完璧な雪かきをするようなったお隣さんに合わせて、私の仕事ぶりも潔癖症並みになった。車を運転しない母は春になれば黙っていても雪は融けるよと呆れる。
玄関周りと、生徒さん用の駐車場と、裏の駐車場と雪かきするので、ご近所には申し訳ないが公道の方はおろそかになってしまう。
春先の氷割も大好きだ。氷になってしまった雪をパカパカ割ると、水たまりに溜まっていた水が勢いよく流れ出す。ダムが決壊しただの、運河だの言って遊んだものだ。あんなに楽しいことを知らないなんて。。。。
先日も手術以来雪かきの必需品になったコルセットを締めていそいそと出て行ったら、用務員さんが氷を割っていらしたので、その氷をどけて水を流すことにした。路面が傾斜していて大洪水になる道路なのでそれは面白い作業だ。下校途中の生徒達もおもしろそうに見ている。やってみたそうにしている子に手伝わせることにした。こんな水遊びみたいなことをしてお手伝いなんてよい機会ではないか。「ほら、これ持ってお水流して」とシャベルを渡したら、やったあと言わんばかりの様子で手伝ってくれた。しかし、現代っ子らしく家の手伝いは何一つやっていない様子。下流から上流の方に水を流してみた り要領を得ない。しかしまもなくコツをつかんで上手に水を流し始めた。かなりの水が下水口に流れてとてもよいお手伝いになった。「一段落したら帰る~」と言う子供に「そうだね、手伝ってくれてありがとう」と言って、ちょうど教室の前を通るときにお手伝いのご褒美を持たせた。
子供は「知らない人から物をもらっちゃいけないって」と家人から教わったことを私に伝える。私もそう教わったし、教室の子供たちにもそう伝えている。「おばちゃんここに住んでいるんだからどこのだれかわからない人じゃないでしょ?それにお手伝いしてくれたご褒美だから、ママにちゃんとお話ししてそのお菓子見せてあげたら怒られたりしないよ」と小分けに包装された雛あられを持たせてやった。困った様子で消え入りそうな声で「ありがとう」と言うと元気に駆けて行った。
こういうことが地域で子供を育てるということではないのかなと思っているがいかがだろう?とは言っても、そうやって巧みに子供を騙す輩はいるし、給食を食べてショック死するアレルギー体質の子供もいる時代、難しいだろうなあ。
10 どこまで続ければ成し遂げたことになるのか
昔はピアノをやめるときには100%保護者がご挨拶に来てくださったものですが、最近はそうでもないようです。ネットでもメールや電話でやめますと言って一方的にやめる人がいて非常識だという書き込みが目につくようになりました。メールや電話はまだいい方で、黙って行かなくなってしまう人もいるそうです。
私自身もピアノを習っていたので、辞めるときに挨拶に行かなことはまさに「後足で砂をかける」行為で全く理解できません。今は教える側になりましたので、こんなことを書くとおごり高ぶった先生と勘違いされる危険もあるとは思いましたが、挨拶なしにやめてしまうのは最近の新しい傾向です。
私自身は、抗議のサインかもしれないと考えて自分の行いを気をつけて振り返るようにしていますが、そういう人達は全く悪気はないようで、謝礼は毎月払っているし、子供自身が礼を言って帰ってくればいいという考えのようです。それにしても最近は本当にいろいろな考えの方が増えましたが、自分のやり方を主張するのであれば、他人のやり方も尊重するようでなければ、社会人とは呼べないのではと感じます。
先日中3の生徒さんが晴れて教室を卒業することになりました。転校生でブランクがありましたが、やっぱり続けたいと再開したピアノでした。私自身受験の時に一度休んでしまったので、入試本番まであとわずかというこの時期まで続けられた生徒さんは、途中でやめるとは言わないで「成し遂げた」と言えると感じます。
お母様は私と年が近かったせいでしょうか、お母様自身子供の時にピアノを習っていて、親のすることをしっかり見てお育ちになったのでしょう。何をなさるにしても私と感覚が同じで本当にほっとさせてくださる方でした。ご挨拶に来てくださったので、私も今まで続けてくださったお礼、レッスンの進行状況など報告することができて本当にうれしく感じました。思いもかけず素敵な花束をいただき大感激しました。心から感謝です
受験まで体調管理に気をつけてラストスパート頑張ってほしいですね。ピアノを続けながら運動部でレギュラーをこなし続けました。塾にも行かず家庭教師もつけずに学年のトップに居続けることができたのは、こつこつとがんばること、時間の管理方法を身につけたおかげです。また、お母様も精神的に支え続けてくれたおかげだと思っています。これからの人生、絶対どこかでピアノをがんばったこと、役に立ちますよ。
9 年末年始のご挨拶 [2012 12-30]
今週は追加レッスンの生徒も入れると29日まで年内最後のレッスンが続くとあって、日頃あまりお会いする機会のないお家の方々が次々とご挨拶にいらしてくださいました。私もこの1年間の感謝の気持ちをお伝えすることもできましたし、日頃のレッスンの様子など報告できました。
子供さんの年齢にもよりますし、先生によってレッスン形態はいろいろですが、私はレッスンの様子をご覧いただけると、私の仕事ぶりもご覧いただけますし、生徒さんもとても頑張るので、大変よいことだと思っています。年末年始に限らずどうぞいつでも遠慮なくご覧いただけたらと思います。
最近は1年の締めくくり/年の始めという感覚がなくなりつつあるようで、お正月もとりたてて特別な意味はなくなる傾向にあるようです。コンビニはもちろん、スーパーも三が日休むことはなくなりましたし、初売りも元日から行うところが増えました。ほとんど日常と変わらないので、当然そういう感覚も薄れていくのでしょう。
そんな中、私が古風なタイプと察してか、先輩保護者が伝承なさるのか、皆様年末年始のいずれかにいらしてくださって、大変ありがたいことです。(こうやって書くから無言の圧力を感じてきてくださるのか?でも公のサイトに書くのは初めてですが)
お歳暮やお中元は私にとってはボーナスです。出る会社もありますし、出ない会社もあります。社員募集に応募するときにボーナスが出るか否かを訊く人はいますが、新しい生徒さんがお習いになるときにそんな話をする先生は皆無でしょう。お中元お歳暮は現金か商品券でと指定する先生は存在しますが!!もちろんあみかではそんなことはしていませんのでご安心を!
今年は手術でご心配をおかけしましたが、英語の弁論大会で入賞するような結果も出すことができてほっと胸をなでおろしております。年明けにはピアノの検定試験もあるせいか、発表会のとき以上に生徒たちは張り切っています。日頃の練習のときにやらされている感の強い生徒も今回は頑張っているので少しびっくりですが、成長したということなのでしょうね。来年も子供たちが自発的にがんばりたくなるようなことをご提案できるように工夫していきたいと思います。今年一年あみかのご利用ありがとうございました。年明けも4日からありますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
8 ベテランお母さん パート2 自分でする [2012-12-04]
今日は今年5月の日記に続いて私が共感するお母さまを一人紹介しよう。
そこのお母さまは小学校4年生の子供に休みや遅刻の電話連絡を自分でさせる。私は日頃時間がかかっても子供自身にさせることが大切だと思っているので、子供が電話をかけてくることにとても好感を持つ。最初は生徒がどきどきしている様子が伝わってきてがんばれーと心の中で応援しながら、多少会話を誘導することもあったが、最近は安心して聞いていられるようになってきた。反復練習が上達につながるのは別に勉強だけではない。最近は何でも親が先回りしてやってしまって、いつまでたっても何もできない子供が多いような気がするので、本当にここのおうちの方針には共感する限りだ。
よく新人社会人が電話のかけかたも知らないと私も含め大人はぼやくが、経験させてきてないまま大人になってしまったのだから、何も教わらないまま大人になった人間を責めるわけにもいかないだろう。(ばかじゃないんだから何も教わらなくたって自分で見ていたらわかるだろう。。。というご意見にも強く共感するが)
私が子供の頃は子供自身が電話連絡をするのは当たり前で、親が電話したりするとかえって過保護とか甘やかしているとか言われて恥ずかしいことと考える人が多かったが、今では親の連絡が増えてきて当たり前と言ってもいいくらいだ。(そういう親を持つ子供が大人になって新型鬱になっているケースは、今年4月の日記に書いたので参考にしてもらいたい)時代の流れだから私もいつまでも昔のやりかたにしがみついて強要するつもりもない。
しかし、私自身、小学生のときはずる休みの電話をしたりして、先生に見破られて注意されたり、うっかり時間変更のレッスンをすっぽかしてしまって、お詫びの電話を入れたりすることで、家の外で話す時の口のききかたであるとか、物の頼み方、謝り方等など、いろいろと練習させてもらった。電話だと相手の声音がわかるので、気持ちがダイレクトに伝わってくる。そのやりとりが成長させてくれるのだと考えている。メールは一方的に送りつけるだけだからお気楽だ。
可愛い子には旅をさせよというではないか。虎は我が子を谷に突き落とすというではないか。突き落とさなくてもいいから、いろいろと日々の営みをもっとやらせてあげてほしいと感じる。
7 ハロウィンにめぐらす思い色々[2012-11-15]
日本の10月の行事を英語で説明するように高校生に指示したら、ハロウィンを説明してくれた。思えばこの世代が幼稚園のときに私はハロウィンパーティをしていたのだから、考えれば当り前のことであった。
さて、毎回ハロウィンの度に感じることがある。trick or treatについてである。アメリカでは子供達が近所を回って家の人が出てきたらこの言葉を言うのである。大人はお菓子を袋に入れてくれ、子供達は礼を言って次へと向かう。
小学校中学年位までは親が付き添うので、大げさな言い方だが、社会で必要なコミュニケーションスキルを学ぶのである。
私がお世話になった家の子も母親と私に付き添われて出かけたが、恥ずかしがりやで肝心のフレーズが出てこない。「自分で言わなきゃお菓子は手に入らないのよ。ほしいならはっきりとお家の人に伝えなさい」と励まされていた。
アメリカでは小さい時から、自分の言葉でお願いすることを徹底している。The squeaky wheel gets the oil. (キーキー言うタイヤは油を注してもらえる)なのだ。また礼を言うのは日本でも同じだが、米国では親子間でも徹底している。小一になるまでには、どんなに恥ずかしがり屋の子でもpleaseとthank
youは言えるようになっている。
さて、日本の子供達はどうだろう?基本同じだとは思うがなかなかはっきり言える子は少ない。黙っていても大人が察してやってくれるので、何も言う必要がないのである。もっとも、日本のハロウィンイベントは幼児がほとんどだし、卒なく会が終了すればそれでいいわけだし、トゥリッカトゥリートは意味のない音であろうから、大きな声で言えるかどうかはどうでもいいことかも等々。。。
バスを降りるときに、感謝の言葉を運転手さんに発して降りる乗客は年代を問わず減ったような気がする。お水を持ってきたくれた店員に礼をはっきり言うお客さんは50%いるだろうか?ファストフードで注文の品を受け取るときに礼を言う人もどれ位いるだろう?文化の違いだから、日本ではその程度では声に出しては言わないのかもしれない?言ったら自分も相手も気持ち良くなれるだろうに。
最後に唐突だが、友達がアメリカのハロウィンを称して「甘いモンくれよぉ。イヤだってんなら、こちとら最終兵器あるぜぃ"などと恐喝まがいのセリフで、子どもたちに他人宅を訪問させるとは!! 侵略訓練か!?」とジョーク飛ばした。妙に納得するものがある。
6岩手県高校生英語弁論大会の感想&あみかの宣伝[2012-10-27]
今時は昔とちがって照れずに英語の音をまねる子が多くて、きれいに発音できる子が増えたと思っていましたが、それは私の勝手な思い込みであることがわかりました。確かに英語人口の頂点のレベルは上がったと思えるほどすばらしいスピーチもありましたが、すそ野は相変わらずコテコテの日本語なまりで、今時まだこんなに強いなまりで話す人がいるんだと驚かされるほどでした。
大会に参加する生徒達が何を思って大会に参加するのかも、指導する側の思惑もいろいろ見え隠れして、感想を書きだすと非常に長いエッセイが書けそうなので、それについてはまたの機会に触れることとして、今日は発音に限って感想を書きたいと思います。
子音に関しては全体的にレベルが上がったと思いました。昔よく話題になったB&V, L&R, S&TH は昔ほどすごい発音の生徒は少なくなったように思います。問題は母音です。どうしても「あいうえお」のどれかに直してしまっている生徒が多かったように思います。
また、つづりに影響を受けて、まちがった読みのままになっていることも多かったように思います。例えば、thoughtです。-ou-の部分は米語だとオとアの中間の音のまままっすぐ伸ばすのですが、どうしてもソウトゥと読みたくなってしまうようでした。becauseもビコウズと発音している人が多くいました。母音がきちんと言い分けられるようになると英語の発音ももっとよくなるのですが。。。
この微妙な音を聞き分けられるのが、良い耳を持った人達なのですが、昔から、音楽をやる人達は英語の発音がいいことになっているのです。耳がいいからなのでしょうね。特に小学校に上がる前からピアノなどを習っていると、英語の発音も変わってくるのです。ご存知でしたでしょうか?こんなところにもピアノのレッスンって貢献しているんですよ。
自分の耳の性能がよくないと感じた時は、発音記号を読めるようにすると発音の改善に役に立ちます。聞き分けられなくとも目で確認することによって気がつくことはたくさんあります。あみかでは小学校のときからフォニックスと並行して発音記号もお教えしています。私自身リエゾンのしかたも系統だって学習しましたし、アメリカにいるときに訛りを矯正するクラスも受けましたから、みなさんのお役にたてることと思います。日本人のなまりを矯正する教材も現地で買ってきました。おもしろいので、南部なまりやスペイン系のなまりの教材も買ってきました。ハリウッドの俳優用にそんな本があるんです。こんなところが学校の英語ではカバーできないところだと思っています。
5「生」の意味[2012-09-13]
最近はインターネットなどのおかげで、生身の人間のレッスンを受けなくてもよくなりましたが、もっと「生」のレッスンで五感を使ってレッスンを受けてもらいたいと思います。何度でも提案し続ける理由は、「生」に勝るものはないと再認識するできごとがあったからです。
それは私の入院でした。英語の暗記課題を出しておいたのですが、入院中は、生徒はCDを聞きながら練習するしかありません。休み明けに暗記のチェックをしたのですが、暗記自体は問題ありませんでしたが、あんなに上手だった発音がすっかり日本語なまりに戻っていました。そのクラスはまだビギナーの域を出ないので、もう少し長く習っていて単語レベルの発音は問題なく発音できるレベルまでに達しているクラスに比べて、まだまだ確実性に欠けていたのです。元々ピアノも習っていて耳がとても良いことと、口先が器用で、お手本をそっくりそのまま真似できる子の多い優秀なクラスでした。まだ英語はほとんど読めないので、CDを真似するしか練習する方法がなかったはずです。
お伝えしたいのは、それほどにCDをまねるだけでは限界があるということです。まだ英語が読めないせいで、頼れるのは自分の持っている「聴覚」だけです。DVDでしたら、「視覚」も加わるのでもう少し変わったのかもしれませんが、それでも「生」のレッスンで、先生の口元を見て、生の音を聴いて、実際に真似をして、直してもらう。。。先生の表情や語気に注意しながら、良い意味での緊張をしながらレッスンを受けるのとはびっくりするほどの開きでした。(コンピュータと将棋をするのと、生の人間と将棋をするのでは、脳の働きが全く違うのは周知の事実ですね)
これを日々積み重ねているのであれば1年もたてば大きな開きになるでしょう。幸いにして、通常のお盆休みを含む2週間の休みで仕事に復帰できたので、すぐに勘はとりもどしてくれましたが、つくづく生のレッスンは大切だと感じるできごととなりました。
生ジュース、生ビール、生野菜、生ハム、生チョコ、生クリーム、生放送、生演奏、生足(?)、どれもこれに勝るものはないというものばかりですね。
もっと、生身の人間対人間のレッスンを大切にしてもらいたいものだと思います。
4夏休みの過ごし方[2012-07-25]
最近はピアノ教師が自分に関係する演奏会関係のチケットを門下生に負担させることは少なくなってきているようだ。しかしながら、そのせいもあってか子供達が演奏会に足を運ぶ機会は減っているようにも感じられる。それをふまえて夏休みは是非演奏会に行って欲しいものだ。
以前は恩師がリサイタルを開くような場合、門下生はチケットを数十枚割り当てられるものであった。要領のいい人は売りさばくし、友人関係が壊れるなどと懸念する人はチケット代は自己負担して無料で配ったりすることが多かった。私の恩師のように生徒に負担させない先生もおられたが、そういうタイプの先生は現代に比べれば少なかったような気がする。
しかし、同じ理由で、ピアノを習っている子供達は今より演奏会に行く機会が多かった。恩師のリサイタル、恩師が属している協会の音楽会・勉強会のたびに、チケットが回ってくるわけであるが、今ほど娯楽があるわけでもなかったし、勉強でもあるし、生徒達も音楽会にせっせと足を運んだものだ。大学の時に、月に何回演奏会に行くかの問いかけに、月に3回以上足を運ぶ学生がたくさんいて、教授が大変喜んでいらしたのを記憶している。
私自身盛岡に帰ってからは、県民会館やマリオスに行ってはちらしをもらってきて生徒に配る。少しでも生の音楽に触れてほしいからであるが、果たして行ってくれているかどうかは、発表会のときくらいしかお会いしない保護者もおられるので、正確な数は把握していない。
この間の演奏会行ってみた?とさらりと聞いてみるが、中には演奏会らしい演奏会に一度も行ったことがない生徒もいる。びっくりだがチケットを強制的に購入させて行かせるわけにもいかない。(というかしたくない)
季節は夏休み。音楽雑誌を見ると、関東や音楽教育が盛んな地域では、色々なセミナー、ワークショップが目白押しだ。安価な運賃で、著名な音楽家の教育が受けられる会場までたどりつけること、子供達のモチベーションを刺激する要素がいっぱい転がっている環境は、地方にいるとうらやましい。
最近は、学校の勉強が忙しくて演奏会どころでない生徒が多いようだが、せめて長期の休みのときくらいは、演奏会に行ってみるなど、普段忙しくてできないものにとりくんでもらいたい。別に演奏会でなくても、レンタルCDを借りてきて聞きまくるのもよし、you
tubeですばらしい演奏を見るのもよし、お金をかけなくてもできることはいろいろある。
震災復興、リーマンショック以来の不況でそれどころでないのも十分理解できる。しかし、子育ては何人子供がいようとも、一人に対し1回しかできない。大切な時期を大切に過ごしてほしいものだ。
3Time flies.[2012-06-27]
このサイトはピアノに関係する人が多く閲覧なさるところだと思いますが、たまたまうちの教室は英語も教えているので、今日は英語の話をしようと思います。
先日ホームパーティの準備で、留学中によく飲んでいたアメリカの粉末ジュースを話の種に個人輸入しました。
日本はお味噌汁があるせいか、食後にお茶を飲むことはあっても食事中に飲む習慣はない方が多いと思いますが、アメリカの食事は汁ものを必ず準備するわけではないので、食事時に各自飲み物を準備するのです。
最近では日本人でも食事のときに、ジュースや炭酸飲料を飲む人が増えたようですが、砂糖のいっぱい入ったコーラやジュースを片手に食事をする光景はちょっとしたカルチャーショックでした。
その中でそのジュースはなかなか自然な味でお気に入りだったのですが、ちょうど英語のレッスンで食卓の準備をする内容にさしかかったので、そのジュースをふるまうことにしました。
ちょうど未開封で、子供達は説明書を読めないとどうやったらいいのかわかりません。日本の1カップとアメリカの1カップは若干量が違うので、単位の勉強もできるしいい勉強になるとひそかに思って、子供達と一緒に解読、無事口にすることができました。そこで子供達がめずらしがってくれるのを期待していたのですが、日本のものと変わらな~いとのこと。
そのときやっと気がついたのです。ああ、そういえば、当時日本にはオレンジジュースはなかったんだと。
いったい私はいつの時代の人だと思うでしょう?20年~30年前はオレンジジュースは少なかったのです。たいていみかんジュースでしたし、オレンジジュースと謳っていてもみかんジュースで割っていたりしたものです。
アメリカに行って、オレンジジュースは日本のものと違ってめちゃくちゃおいしいと思ったものでした。特にフロリダ産のオレンジジュースは特別に甘くて、ずいぶんこだわってフロリダ産を選んだものでした。
ここ最近オレンジジュースはこんなもんだと思いながら飲んでいた私でしたが、こんなところで時の流れを感じてしまった出来事でした。
異文化学習のつもりだったのに、ちょっとうらめしい。。。
2ベテランお母さん[2012-05-22]
先日ひさしぶりにお母様の見事な叱りっぷりに遭遇しました。
めりはりの利いた躾が子供を育てると私は再認識できましたが、現代のお母様達には、どう映るのでしょうか?
小2のA子ちゃんは2週続けて楽譜一式を忘れてきました。
私が子供の時は、先生に断って20分休みに学校の忘れ物を取りに家に戻ったものです。片道徒歩15分の道を全速力で走ると往復で20分、3時間目にはなんとか間に合いました。
A子ちゃんの学校までは徒歩で5分、忘れ物を取りに戻そうかと思いましたが、今時は危険ということで学校から外に出すことはあり得ない時代なようですし、楽譜がなくともできることを教える日にしました。
お母様がお迎えにいらしたのでその旨説明しました。
お母様は私にはすみませんと詫びてから、子供に向かって、「2回続けて忘れるなんてあり得ないことです。どうしたら忘れないようにできるのか自分で考えなさい。自分で解決法を探さないといつまでも同じことを繰り返しますよ」ときちんとした口調で、でも諭すようにおっしゃいました。
まあいっかあ、仕方ない、毎回注意していたらいつかは学習してくれるだろう程度にのんびり構えていた私ははっとしました。
そうっ!これが本来の躾だ!
ここ数年モンスターペアレンツの話を聞くようになって以来、ほとんど「叱る」という方法を無意識のうちに封印している自分に気が付きました。
悪い時は悪いと真剣に真正面から向き合って教えることが大切と教わりました。ペットと人間様の躾がいっしょなはずがないと、ご気分を悪くなさる保護者が増えたので、ここでその例えを出すのもどうかと思うのですが、ペットの躾はできた時には間髪をいれずほめてあげること、また悪いことをしたときには、やはりその場で、笑わないで本気で叱ることが大切と言われていました。今も変わらないのではないでしょうか?
それがここ5年位の間に、子供に向かってそんなにむきになったって。。。 叱ったら子供は委縮するばかり。。。 大きくなったらそんなことほっといてもわかるようになるよ。。。
などなど言われるになってきました。
子供だからそんなにむきになる必要があるのですよね?
叱ってばかりいたら子供は委縮しますが、ときどき叱るのは効果的ではありませんか?
教えられないまま身体ばかりが大きくなって、こんなこともわからないの?と思わせるようない大人が増えましたね?
(私のことは棚に置いてま~す)
褒めるだけで子供が育つならみんな苦労していません。褒めてみたり、叱ってみたり、ほっておいてみたり、色々な方法を使ってみても親の思うようにはならないのが子育てではないのですか?
封印していた方法、また使ってみようっかな。。。と思わせてくれる、凛としてあっぱれな叱りっぷりでした。
1新型鬱の特集を見て[2012-04-30]
最近、仕事となると従来型鬱と同じ症状が出て、プライベートの遊びとなると普通に元気に遊べるような、新しいタイプの鬱が出てきたとのこと。
親との必要以上の癒着が見られ、会社と本人の連絡の間に親が入ることも非常に多いのが特徴の1つだと言っていた。
また、子供が育つ過程でぶつかる障害を取り除いてきたことが、逆に「打たれ弱い人間」を作り上げているのではないかという指摘。
時代が違うのかもしれないが、私の小学時代は毎レッスンごとに、どうやってさぼろうかとそれらしい理由を考えるのに必死で、先生に直接電話連絡をして、口のきき方を注意され、ドタキャンを注意され、休みすぎを注意され、健康管理を注意されたものだった。
大人になってみると、子供のうそはバレバレで、恩師も当然わかっていたであろうに、それを親に連絡しなかったのは、逃げ道を作ってあげていたということだったのかと解釈している。
電話で休むことを伝えれば先生の声は険しいものになり、それを察して、色々反省すること考えることは子供ながらにあったものだし、今思えば、そういうことを通してコミュニケーション能力は現代の子供達よりは訓練されたのかなという気がする。
子供に良かれと思ってしてあげることが、自ら経験して成長するチャンスをうばってしまっていることにもっと気づいてほしいと思う番組であった。